2018年8月13日月曜日

自治会夏祭りイベント企画に「平家物語」詩吟と民謡・演歌・カラオケ・合唱いいね!⑪

伊勢平氏発祥の地「忠盛塚」津市産品の碑の写真
伊勢平氏発祥の地、忠盛塚(津市)

夏祭りをつくるには、その土地ならではのストーリーが不可欠です。それにはしがらみや既成の枠にとらわれた『縮み思考』ではダメです。100年先を見越した大胆な発想こそ大事です。


目次
今から950年ほど前の平安時代は武家社会の幕開けでした。平氏が関東地方に勢力をのばしやがて源氏が台頭、平氏は西国に追い払われます。伊勢・伊賀を根拠地として近畿や瀬戸内海に勢力をふるうようになります。

忠盛(平清盛の父)は公卿に準ずる地位にまで昇り、正盛(忠盛の父)とともに西国に勢力を拡大。忠盛の死後、保元・平治の乱によって最後に勝ち残ったのが平清盛。貴族にかわって武士が政権を握る時代になったのです。



都から遠くはなれた関東は、実力だけがものをいう社会でした。原発事故があった福島は平将門が支配していました。今も伝わる「相馬野馬追」は将門の騎馬の名残といわれています。

この平家を関東から追い出したのが源氏で、京都の朝廷が目に届かないところでジワジワ勢力をのばしていました。関東を追われた平氏は伊勢・伊賀を根拠地とし伊勢平氏とよばれています。

忠盛塚

伊勢平氏発祥の地とされる地図の写真
「忠盛塚」三重県津市産品

水田が広がる津市産品。県道沿いに、ポツンと小さな塚があります。「史跡 平氏発祥伝説地」の石碑がなければ、通り過ぎてしまいます。ここで源平合戦で知られる平清盛の父忠盛が生まれたと伝えられます。忠盛塚と呼ばれています。

正盛(清盛の祖父)は上皇(白河法皇)に気に入られます。後を継いだ忠盛は異例の出世をして、武家としては初めて「内の昇殿」を許され、上流貴族の仲間入りをします。正盛の子の忠盛も立派な武将で父の後をうけて瀬戸内海に進出。海賊をとらえ、宋との貿易を行いました。源氏は陸に強く平氏は海に強かったといえます。

このことはあとあと平氏滅亡に関わってきます。土地を守りたい武士は源氏の結束力を生みますが、海を根拠地とする平氏の場合は土地がありません。平氏が順調に勢力を伸ばしているうちはその欠点が表面に現れません。

天皇と上皇の権力争いが起き(保元の乱)鎮めたのが平氏ですが、熊野参りをしているスキに源氏が朝廷を乗っ取ります。急いで京に帰った清盛の軍勢は源氏を蹴散らし源義朝は殺され、13才の頼朝は伊豆へ、2才の義経は京都の鞍馬寺に預けられます。

平氏の力はたちまちにして大きくなりましたが清盛の政権は長く続きませんでした。清盛は武士でありながら貴族になって政治を進めたのです。その頃、頼朝が関東を制し平氏打倒の旗をあげていました。

清盛は孫の維盛、弟の忠度に5万の軍勢で頼朝追討に向かわせ、富士川で合戦になりますが、途中で逃げ出す者もいて退却、京都に帰ってきたのは30騎、近江では武士が反乱し延暦寺や興福寺の僧兵が助ける有様でした。

清盛は怒って、子の重衡に討伐を命じ、民家に火を放ち、東大寺をはじめ諸寺は一夜のうちに焼き払われました。翌年清盛は病に倒れ高熱のうち亡くなりました。64才でした。

源氏の一族木曽義仲は京に攻め入ります。平家一門の公家は都からでてゆきます。平氏は一夜にして賊軍となり領地を没収され、反対に源氏が平氏を討伐する立場になります。木曽義仲は凶作と戦乱の食料不足で市中から略奪、人気が悪くなります。

いったん九州まで落ち延びた平氏はふたたび勢力を盛り返し瀬戸内海の水軍をしたがえて京都に向かいます。出陣した木曽義仲軍は敗れ、頼朝と義経の軍にも攻めたてられ討ち死。平氏は一の谷(福原)に陣地を構えます。

義経は70騎を率いて平氏軍の背後から断崖絶壁を駆け下り急襲、平氏を破ります。有名な「鵯越の逆落とし」です。(この話はのちの研究で創作と考えられています)。

歴史は常に表と裏の二面性をもちます。表の事象を探り出していけば、裏に秘められた思わぬ事実に突き当たることがあります。歴史の真実を探るには、表と裏を両面からとらえていくことが必要です。(定点観;清原康正)

破れた平氏は沖の軍船に逃げましたが逃げ遅れた平敦盛(14才)は、敵方の熊谷次郎直実に呼び返しに応じ格闘の末組押さえられます。直実は我が子のような歳の敦盛を見逃そうとしますが、手柄目当てに迫りくる武者をみて、やむなく首を落とすのです。


一の谷の戦い

(吟詠)
  1. 一の谷の軍営遂に支えず 平家の末路転た悲しむに堪えたり 戦雲収まる処残月有り 塞下笛(さいかぶえ)は哀し吹く者は誰ぞ(松口月城)
  2. 笛声(てきせい)嫋々(じょうじょう)人の腸(はらわた)を絶つ 夜は冷ややかにして陣中故郷を憶う 誰か識らん傷魂空しく夢に入るを 恩讐両(ふた)つながら解けて涙痕(るいこん)長し(網谷一才)
  1. 嫋々しい笛の音。冷えこむ夜の陣中。兵士たちは望郷の思いをつのらせます。この笛の主の 傷む思いも空しく夢に入ったと誰が知るだろう。恩讐に涙が流れた痕が長い。
  2. 忠度が、都落ちの身でありながら歌道の師俊成を訪ねたのも、文人としての人間味を示すものでした。

青葉の笛(合唱)

敦盛が身につけていたのが笛です。若武者敦盛が人々の涙を誘うのは、彼が笛の名手であったからです。「嵐の夜きこえていたのがこの笛だったのか・・・」。直実はのちに出家し敦盛の菩提を弔ったと伝えられています。


  1. 一の谷の戦敗れ 討たれし平家の公達あわれ 暁寒き須磨の嵐に聞こえしはこれか青葉の笛
  2. 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き わが師に託せし言の葉あわれ今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に残れるは「花や今宵」の歌

  1. 一の谷の戦で平忠度も岡部六弥太忠澄(おかべのろくやたただすみ)に討たれました。忠度は清盛の異母弟です。六弥太はこの武将が忠度であることを知らなかったのですが、矢を入れておく箙(えびら)に結び付けてあった歌、【行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし】を見て、忠度だと知ります。
  2. 更くる夜半に門をたたき、わが師に託せし言の葉あわれ、というのは平家都落ちの時、夜半、途中から都に引き返し、藤原俊成に「今後勅撰の歌集が作られるようなことがあれば、この中から一首でも載せてほしい」と、自詠の歌を師に託したといいます。俊成は忠度が朝廷のおとがめを受けているので「読み人知らず」として入集したのでした。


壇の浦の写真
壇の浦

壇の浦の決戦

一の谷から逃れた平氏の軍勢は、屋島(下関)で態勢を立て直し壇ノ浦で決戦。平氏は上げ潮にのって優勢でしたが、義経勢にこぎ手やかじ取りを矢で狙われ、折からの引き潮で船が乱れて、潮流に乗る軍勢に全滅させられます。

平氏一門は次々と入水、清盛の妻(二位尼)も12才の帝(安徳天皇)と共に海中に身を投じ、安徳天皇の母親徳子(建礼門院)は敵方に熊手で引き寄せられます。

早鞆の瀬戸(演歌)



「早鞆の瀬戸」は福岡県門司と山口県下関市壇ノ浦の間にある水道で関門海峡の最狭部は650mです。潮流が最高15キロと自転車並みの速度に達する航行の難所で、源平の古戦場として知られます。


壇ノ浦を過ぐ(吟詠)

魚荘蟹舎雨煙(ぎょそうあいしゃあめけむり)と為る 蓑笠独(さりゅうひと)り過ぐ壇ノ浦の辺(ほとり) 千載(せんざい)の帝魂(ていこん)呼べども返らず 春風腸は絶つ御裳川(みもすそがわ)(村上仏山)

かけて知る(吟詠)

かけて知る 御裳川の流れには 波の下にも 都ありとは(安徳天皇)

(みもすそ川は今のみもすそがわ町を流れていました)


壇ノ浦夜泊(吟詠)

蓬窓(ほうそう)月落ちて眠りを成さず 壇ノ浦の春風五夜の船 漁笛一声恨みを吹いて去る 養和陵下水煙の如し(木下犀譚)


ひえつき節(民謡)

平氏一族は追っ手を逃れて各地へ散り散り。 たどりついた山深き椎葉。しかし、源頼朝は那須与一の弟那須大八郎に追討の命を出します。大八郎は落人を発見しますが、農耕をやりながらひっそり暮らす姿を哀れに思ったのかこの地にとどまり、厳島神社を建て農耕を教えながら暮らします。

そして平清盛の末裔鶴富姫と出会います。かっては平家の姫として優雅に暮らしていたものの、現在は落ちぶれてしまった鶴富姫の哀れさ。遠路はるばる追討に来た源氏武将との出会い。

大八郎が姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音を合図に逢瀬を重ねるところは、「庭の山椒の木鳴る鈴かけて鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ 鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ 駒に水くりょというて出ましょ。」と最初は会うのを拒んでも、再会すれば、喜びは大きく、そんな若者の思いが深い感動を呼びじわじわと伝わってきます。

「鎌倉に帰れ」の頼朝の命に、那須の大八鶴富おいて椎葉立つときゃ目に涙、姫を連れていくわけにもいかず、「生まれた子が男子ならわが故郷下野の国へ、女ならこの地で育てよ」と言い残し、泣く泣く椎葉を後にします。古文書「椎葉山由来記」

庭の山椒の木鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ 哀話綿綿栄華の夢 稗搗(ひえつき)の里謡(りよう)今に至るまで伝う

(吟詠)

屋島之浜壇の浦の辺 平家の末路亦(また)憐れむに堪えたり 残党隠(ざんとういん)とうす上椎葉(かみしいば) 山岳深き処 炊煙(すいえん)を見る(松口月城)

祇園精舎(吟詠)

祇園精舎


祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表す おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし

祇園精舎の鐘の音は、万物はすべて流転してとどまるところがない響きがある。釈迦入滅のときに白色に転じたという沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるということを示している。おごり高ぶっている人も長続きするわけではない。それは春の夜の夢のようにはかないものだ。

人生の因果やはかなさが和歌のやりとりや漢詩に込められていて、ハラハラドキドキしつつ夏の宵に想いをはせる。しばし暑さを忘れて平氏一族の心に寄り添いつつ。
Everything is changing

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